いつか、誰か、何か言うだろうとは思っていたが、やっぱり来た。
一昨日このニュースを読んだ。
日本自立生活センターが、昨年NHKで放送された
「自殺を賛美しないとのNHKや放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送基準に反し、
刑法の自殺幇助罪が適用される案件であり、公共放送として不適切」
・・・として、BPOに審議を申し立てた。
問題とされたこの番組を見た人は少なくないと思う。
私はテレビで2回、その後も録画しておいたものを複数回見ている。
そして今後、この録画を消すことは多分ないと思う。
この番組に、かの団体が指摘するような内容は何ひとつ見当たらないと思うし、
誤解を恐れずに言わせていただけば、被害妄想も甚だしい…と。
「障害ある生を否定し、人工呼吸器使用者の生の尊厳がないがしろにされている」
実際に障害のある方が、このように感じたのだろうか。
そのご家族が、そう思ったのだろうか。
私にはとてもそうは思えない。
この番組のどこにその要素があったというのだろう。
むしろこの団体が、ここぞとばかりに『人権』を振りかざしているようにしか見えないのだ。
生前、彼女が記していたブログも最初から読ませてもらった。
発病、闘病から安楽死を遂げるスイスへ向かうまでの彼女の魂の叫びである。
真剣に生と向き合い、真剣に死と対峙して出した彼女の決断は
決して誰にも非難されるものではない。
そんな彼女が最後に訴えたかったことを、この番組は何ら飾ることなく世に送り出したと思う。
日本人は生きているうちに『死』を語ることをずっとタブー視してきた。
家族であればどんな状態であれ、1分でも1秒でも長く生きていて欲しいと思う。
たとえ体が動くことなく、言葉を返すことがなくても、そこに物体として存在していればそれでいい…と。
しかし、当の本人にとってはどうなのだろうか。
私の姉は50歳にならないうちに亡くなった。
晩年は病院のベッドの上で寝たきりの生活だった。
頭ははっきりしている。
思考も正常。
ただ、体だけが動かない。
遅からずやって来るであろう死を、待つことしかできない。
その胸中は、恐怖と絶望しかなかったと思う。
家族が、医師が、看護師がどんなに思いやろうとも、どうすることもできないのだ。
そんな現実を目の当たりにした時、人はどう考えるだろうか。
「どんな状態であれ」ただ生き続けていて欲しいと願うだろうか。
もうそろそろ自分の最期を自分の意志で決めてもいい時代だと思う。
自分の意識のあるうちに、自分の意思を伝える。
ただそれだけのことだ。
私も究極の決断は、自分で下したいと思う。
~今日の一句~
きれいごと 先へ先へと 延ばすだけ