Yahoo!ニュースの記事にちょっとイヤな気分になった。
その発言が真実なのか、多少の行き違いがあるのか、本当のところはわからないが、今日一日、ずっと頭に引っかかって離れなかった。
以下、主観丸出しなので、気分を害したらスミマセン。
ドナーさえ見つかっていれば
確かにね。
ドナーさえいれば、我が子は命を長らえることができるかも知れない。
そう思えば、なんでもしてあげたいと思うのが親。
それはよーくわかる。
でも、当事者にしてみれば
「自分達の痛みなどわかるわけはない」
ということだろう。
その通りだと思う。
所詮他人事なのだから。
例えば自分。
私の子どもは全員成人しているオトナ。
彼らが臓器提供の意思表示をしていたとする。
そして不幸にもそういう状態になったとしたら、その時私はどうするだろう。
脳死は死。
頭では理解しているつもり。
でもね、それが我が子となると話は別。
きっと、私は容認できないと思う。
反面、臓器提供を受ける立場になったとしたら、口には出さずとも
『ドナーさえいれば…』
と思うだろう。
他人の死の上に成り立つ生であっても、我が子には1日でも長く生きていて欲しい…と私も思うだろう。
死に行く子どもがいて、それを見守る親がいる。
その一方で、臓器移植を待ち侘びて、待ち続けて、間に合わなかった子どもとその親がいる。
それぞれの悲しみや絶望を『運命』という言葉で割り切ることができたら、どんなにラクだろうかとしみじみ思う。
そして、以前から思っていたこと。
『◯◯ちゃんを救う会』
というのがある。
億単位の金を積み、海外の臓器移植の待機順をすっ飛ばして横入りするという行為に、私は良い印象を持っていない。
それでも我が子のためにできることはなんでもする。
それが親。
そこも理解できる。
理解しつつも嫌悪感を覚えるのは、やはりどこかで他人事と思っているからなのだろうか。
矛盾の塊だ。