だんごのきもち

徒然なるまま自由気ままに書いてます(*^▽^*)

ドナーさえ見つかっていれば…

Yahoo!ニュースの記事にちょっとイヤな気分になった。

その発言が真実なのか、多少の行き違いがあるのか、本当のところはわからないが、今日一日、ずっと頭に引っかかって離れなかった。

 

以下、主観丸出しなので、気分を害したらスミマセン。

 

ドナーさえ見つかっていれば

news.yahoo.co.jp

 

確かにね。

ドナーさえいれば、我が子は命を長らえることができるかも知れない。

そう思えば、なんでもしてあげたいと思うのが親。

それはよーくわかる。

 

でも、当事者にしてみれば

「自分達の痛みなどわかるわけはない」

ということだろう。

その通りだと思う。

所詮他人事なのだから。

 

例えば自分。

私の子どもは全員成人しているオトナ。

彼らが臓器提供の意思表示をしていたとする。

そして不幸にもそういう状態になったとしたら、その時私はどうするだろう。

 

脳死は死。

頭では理解しているつもり。

でもね、それが我が子となると話は別。

きっと、私は容認できないと思う。

 

反面、臓器提供を受ける立場になったとしたら、口には出さずとも

『ドナーさえいれば…』

と思うだろう。

他人の死の上に成り立つ生であっても、我が子には1日でも長く生きていて欲しい…と私も思うだろう。

 

死に行く子どもがいて、それを見守る親がいる。

その一方で、臓器移植を待ち侘びて、待ち続けて、間に合わなかった子どもとその親がいる。

それぞれの悲しみや絶望を『運命』という言葉で割り切ることができたら、どんなにラクだろうかとしみじみ思う。

 

そして、以前から思っていたこと。

 

『◯◯ちゃんを救う会

というのがある。

億単位の金を積み、海外の臓器移植の待機順をすっ飛ばして横入りするという行為に、私は良い印象を持っていない。

それでも我が子のためにできることはなんでもする。

それが親。

そこも理解できる。

 

理解しつつも嫌悪感を覚えるのは、やはりどこかで他人事と思っているからなのだろうか。

 

矛盾の塊だ。

 

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